家へのこだわり

  私の生まれた場所は、青梅街道沿いの理髪店を営む一軒家である。そこは、敷地27坪の木造2階建てで、昭和初期(昭和5年)に建てられたそうだ。(教会跡地に建設)当時では、ごく一般的な店舗併用住宅であった。北側の街道に面し、店舗の入口があり、1階奥に居間兼寝室、台所兼玄関を挟み8畳程度の和室、ぬれ縁に狭い庭。父親の幼少期には、庭が広く小屋がありアンゴラウサギを飼っていたそうだ。
トイレは当然汲み取り式で、風呂がなかった。そして2階に6畳程度の和室があり、ベランダに続く。住様式でいえば圧縮型(食寝休養・ねどこ型)と言われる形式にあたるだろう。
今、思えば家族7人で住んでいた事を考えると、このスペースで効率良く暮らしていた。と考えるしかないのではと思う。実際は食寝分離や就寝分離の住宅計画が取れていないが、当時では、あまりその必要性もなく現在の住環境と比較することは、好ましくないと思う。

  子供の頃、よく覚えているのは、夏に表で遊び帰って来ると店に急いで行った記憶がある。商売をしていた都合、店舗部分にだけ冷房設備があったので、そこで涼しみ、マンガなどを読み、理髪店特有のパウダーの匂いの中、くつろいでいた。しかし、お客さんが来て、混雑してくると私の居場所がなくなり、渋々と居間の方に行ったことを今でも思い出す。しかし、あの理髪店の椅子、鏡張りの壁、前面の硝子、洗髪コーナー、今でもあの空間で過ごした時間は忘れられない。
又、居間では、家族が全員で食事をすると言うのが暗黙の了解とし、父親の仕事が終わるのを待ち遠しく思っていた。食事が済み片付けが終わると、いよいよ風呂の支度である。風呂の支度といっても銭湯に行く準備で、家族全員で街道沿いの銭湯に出かけていく。帰りも一緒に帰るというのが日課であった。ごくごく、一般的な事かも知れないが私にとっては、一つ一つが今でも思い出す出来事である。

建物が古く、大雨が降ってくると天井から雨漏りがする。雨漏りが始まるとビニールとバケツを持ってきて雨漏り対策を講じなくてはいけない。夜などは天井からぶら下った雨水入りのシートを見ながら寝床に就く事も、しばしばあった。子供ごころに、いつかシートが切れて水が落ちてこないかなど不安になった事もあった。
又、トイレは特に薄暗くて、10W程度の裸電球がひとつあるだけで怖いテレビなどを見た夜中に怖くて行けなかったり、急を要した場合は親を起こして行った記憶も鮮明に覚えている。
奥座敷8畳の和室のぬれ縁で、祖母と話した午後の陽射しのひと時は、暖かく寝入ってしまう程気持ちのいい場所でもあった。

しかし、来るときは来る。そう、建直しの時だ。子供ごころにあっけなく、そして簡単に家が解体されて行く様を、親と立ちすくみながら見ていた。私は寂しさがこみ上げてきた。今まで住んだ家との別れ、愛着を持っていただけに・・・・。

まだまだ、話したりないが多くがこの家で経験し学んだ事だ。
なかでも、家族とのふれ合いが、住環境(家)における一番大切な物であると言う事も学んだ。時が経つと親離れが始まり、自立心が芽生える。そこで、子供は家を出て新しく生活を始め、そして家族を持つ。一般的な考え方である。しかし、忘れてはいけない。落ち着ける場所として実家の居間があると言う事を・・・・。私は、今になってやっとそれを確信した。

  最近よくこの家の事を思い出す。理髪店のパウダーの匂い、居間での家族とのふれ合い、陽射しとの調和、木造家屋の味、落ち着ける場所、ほっとする空間の事を。
この家には、小学3年生まで住んだ。その後、何度か家は変わったが、この家での出来事は将来の子供、孫に至るまで私は話し続けるつもりである。親から学んだ義務でもあると考えている。

  今日、私の住宅建築に対する携わりは「この家」で過ごした時間と、その機能性の良し悪しが根源であり、こだわりである。


以上
2001.11.05
writing by dai−k

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